タネノオト 〜ヒヒキ マノスヘシ

カタカムナ相似象 宇宙の理・イキルにただいま寄り添い中

「言葉」と「ことば」この 微妙なニュアンス

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こんばんは

こんな時間になりました。

 

毎月新しい講座のクラスがあって、

今年に入ってテキスト作りに追われています。

今日もそんなヒトツが終わりしばしの安堵感。

なんにしても

書面 文字で伝えていく仕事は「ことば」のヒトツヒトツが命だと感じます。

登壇するといつも感じるあの感覚は

まるでこの写真のように気持ちが集中していないと「伝わらない」そんな感覚。

一瞬一瞬、口から吐いている「言葉」の振動・周波数が

エネルギーの交流を生んでいるなと体感しています。

 

「大切な約束は言葉ではしない」

「大切なことは言葉では伝わらない」

ハマった映画 海獣の子供のセリフ

 

言葉を使っていたとしても伝わっているのは「言葉」ではなく

その風景だったり背景だったりするのでしょう。

だから、会話している言葉と

こうして書いている「ことば」とは

たとえ同じだったとしても「違う」んですよね。

手紙でもメールでもなく 会って伝えないと誤解を生むことってあると思うし

逆に

手紙にしたためた方が届く「ことば」もある。

そしてまた、空間の中で響く言葉は

言葉が伝えているのではなくて 雰囲気が伝えてくれる「ことば」もある。

 

媒体によって「振動数」や「振動の形」が変化するのでしょうか。

そりゃあ「ことば」をくれた人によっても変わりますよね。

愛する人が発する言葉は、どんな形をしているのかとっても敏感になります。

些細な音でも拾い上げたくなるのは、学びの瞬間だったり

自分が変われば受け取ることばの周波数もきっと変化します。

 

伝えたい「思い」はここにあるのに

ついつい、違う「言葉」で伝えてしまったり

言いたいことは言えずに 言わなくてもいいことを言ってしまう。

その現象背後にはどんな思いが隠されているのだろうか?なんて考えるとき

見えている部分が意外に少ないことに気づかされます。

 

本当のありがとうは ありがとうじゃ足りないんだ。

 

そんな歌の歌詞がありますけど

本当にそうだなと思います。

 

溢れる想いが大きくて、伝えきれなくなった時にこそ伝わるものがある。

そんな気がしてなりません。

言葉で伝えようとしても

どんな「言葉」を尽くしても届けることのできない想いを「愛」と言うのではないかと。

それをそのまま、手渡すかのようにして

言葉無くしても、形無くとも

「伝わった」と感じた時に感じる「ことば」は、いかばかりか。

想像しただけでときめきます。

そんな時には決まって

「自分が想像していることよりもずっとずっと大きなチカラ」で伝わっていく。

だから、形にしなくとも 

自分の大切を感じ続けていればいいんだなと思うわけです。

 

 

「言葉」と「ことば」

この微妙なニュアンスも立体で生きることに繋がりそうです。