虹の誕生から虹の終焉。感動は波動量。大切なことは言葉では伝わらない。
こんにちは
ご訪問ありがとうございます。
台風の前の空に虹。
この写真を撮っていた時は台風がこちらにきていることを知りませんでした。
陽の光が、雨上がりの空気を煌めかせて、何もかもが綺麗に見えていました。
掃除機を片手に未だ雲が分厚く暗い方角に虹が出るのではないかと、
家を走り回っていましたがそうでもない。
そうでもないけど、空は綺麗だなぁと
思わず掃除機を携帯に持ち替えて青空の写真を撮っていたら虹が誕生しました。
生まれて初めてかもしれません。
虹ができるところを見たのは。
浮かび上がるようにその姿は現れてきました。
科学的に出現のメカニズムが解明されていたとしても不思議で神秘的で、感動的でした。
この空の下方に静かに色が現れた時、言葉がなかった。
動悸というか、驚きというか、大げさだけど本当にびっくりの方が大きかった。
そんなこと だけど そんなこと。
昨日「海獣の子供」を見に行ってきました。
「本当に大切な約束は言葉では交わさない」
「大切なことは、きっと言葉では伝わらない」
ストーリーの始まりはそんな「こと」から始まります。
その一言に深い深い意味があると感じていた上での今朝の虹でした。
虹はなんども見たことがありますが
誕生し、そして消えて無くなるまでずっと見ていたことはありませんでした。
だから、きっと
虹の誕生から無くなるまでを体験した人の
感動的な言葉を受けても、私にはその波動量がないから
大切な部分は届いていなかったんだろうとわかりました。
つまり
「ことば」はただの言葉にしか過ぎず、
それに意味を持たせ、意味を含み、意味を存在させるのは
「体験で育てる波動量でしかない」
体験したことで、言葉の背後の「言葉じゃないものが響く」という世界に存在しているのだと思います。
カタカムナを遺すために尽力された楢崎先生も宇野先生も学会誌でなんども書かれています。
「書き残した人と同じ波動量・ヒビキでソレを感受しなければ、文字の意味も歌の意味もわかるはずもないだろう」と。
わからないのは、自分の波動量をさらに高める必要があるということ。
書き方や残し方の問題じゃない。
わからない と思うことで
わかりたい という祈りが生まれ
そして わかろうとする 行動が表れ出ます。
また、
わからない と思うことから
諦め という反作用が生まれ
遮りを感じるという体験になる。
どちらにも、「ヒビキ」が存在する。
大切な人とは同じような「ヒビキ」を携えていたい。
大好きな人の「ヒビキ」をウツシとって生きたい。
深いところで手を繋ぐのは、そんなことなのかもしれないですね。
おすすめです。