タネノオト 〜ヒヒキ マノスヘシ

カタカムナ相似象 宇宙の理・イキルにただいま寄り添い中

「言葉」は本物の響きになるのかもしれない

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晴れてきました。

気温がグッと上がるらしいです。

今日は88夜。

そして、もうすぐ立夏ですから、そろそろ暖かくなってもらわないと。です。

 

「時間を有効に使いたいな」と思う今日この頃です。

 

例えば、私は今、まさにこうしてメールを書いているわけですが、
メールの文章を自分の頭の中だけで、テクニックだけで無理やり書こうとすると
とたんに難しくなります。


じゃあどうするのか、というと

このメールを読む方の顔を思い浮かべながら、

その方の悩みが少しでも解決できて、

そして新しい1歩を踏み出せたらいいな、

と、ひたすら思うのです。


つまり、無理やり文章をひねり出しているというより、
伝えたい思いをぎゅっと思い浮かべて、
あとは、それをそのまま言葉にしているだけなんです。

 

今朝、あるメルマガにこんなことが書かれていました。

「書く」ことにあまり難しさを感じることはないのですが

それでも、時に「伝えること」は難しいなあと感じていました。

うまく言葉が作れないことがある。

 

この方のように、その人の悩みを解決したいとか

新しい一歩を踏み出してもらいたいなとかは あまり思わないけど

もしかしたら

同じような「思い」で生きている人たちはいるのかもしれない。

で、

あ なんかわかる とか

あ そうだよね とか 心がひびいたら

「言葉」は本物の響きになるのかもしれないなと、ふと 思います。

 

 

2010年に43歳の旦那さんを病気で亡くしました。

2人の娘がいて、9年経って、今や社会人になっています。

自宅で小さなサロンを展開していて

そこに集う仲間に支えられ今日まで来れたように思います。

 

そして、

なんだかわからないけど、

「一番欲しいものは手に入らない」というリフレインする言霊が私にはあって、

ずっと それはモノや人なんだと思い込んでいました。

 

その空虚さを埋めるように

人に会ったり、人と繋がったり。モノを見たり、手にしたり。

その瞬間は空虚さが埋まるけど

でも、最近、特に思うのは 

何を手にしても、何を手に入れても

時間が経てば、またその空虚さは生まれ出てくる。

結果、モノや人やコトじゃなかったことに気がつきました。

 

 

 

そして、あっそうか。

「何も知らなかった時の自分に還りたい」のかもと、思い当たったのは今朝。

伴侶が亡くなるまで、

こんな思いをしたことがなかったことに気がついたのです。

この空虚さが「旦那さん」だとは思いません。

ただ、あの瞬間から、
「人が死んでいく」ことがどういうことなのかを
思いっきり体験させられたような気がしています。

 

その体験をすることで、失くしたものがある。ということです。

それは、みんなが揃っていて、いつもそこに在る という感覚。

 

つまり、
本当に

「欲しいものはもう二度と手に入らない」のです。

それさえも、波動量。

 

そんな私が、伝えていけることはなんだろうと深く考えています。

 

人が死んでいくことが怖かった。幼い頃を思い出します。

なんせ、祖母の葬式にどうしても出たくなくて、ランドセルを背負って、

小学校に向かった私です。

 

いよいよ、そんな自分を手放すトキもきているような気がします。

 

時間を大切にしたいなと思います。