タネノオト 〜ヒヒキ マノスヘシ

カタカムナ相似象 宇宙の理・イキルにただいま寄り添い中

「形」に戻されたことで見えたものは、どこまでも広がる自由でした。

イスラエル4日目

 

電波が悪くて なかなか サクサク進みません。

届けたいメールも届かないみたいだし

ヨーロッパとは違うんですね。

 

昨日はガリラヤ湖畔で神事がありました。

 

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その前に キリストが3匹の魚をたくさんの魚に変えて

人々の飢えをしのいだ場所に立つ教会に。

 

大勢の方がいらっしゃいました。

 

ここ イスラエルにはキリストの影がたくさんあります。

 

キリスト教を物語でしか知らない私には

現実にキリストが「ここ」に という 実感があまり受け取れない。

お仲間には ハートに響き続けて

涙を流したりしている方がいる中で

何か 焦燥感というか 交われない「何か」が私の中にずっとあって

心から「自分がここにいる」という思いになれない体験を続けています。

 

「自分である」ことの意味

 

それは 常に孤独であること ということでしょうか??

 

 

ガリラヤ湖畔の神事についても同じで…

こういうことから 卒業したはずなのに、

もう、形ではなく ハートで 自分で 生きようと決めたはずなのに

「また ここに戻されたのか」感がいっぱいで

ずっと ずっと 中に入ることができずにいました。

 

そばにいた お仲間にそっと

「これってなんなんだろう」と呟いたら

「形も大事だからね」というお言葉。

 

確かにそうなのかもしれませんね。

いろんな神事がありますから。

 

伊勢遷宮の御白石持ちの神事では

石を引っ張る綱もちをさせていただいた時

引っ張りながら 涙がこぼれたことがあります。

また、諏訪の御柱では 心が晴れやかに足取りも軽く

心から神事を楽しませていただきました。

どちらも「伝統」

何千年 何百年と続くもの。

 

形は続けていくことで 「かたち」になる。

 

これも 続けることで 大きなエネルギーになっていくのかもしれません。

にわか神事になるのか

そうでないのかは この後のトキ次第だということを

学んだのだろうと思います。

 

そして もうひとつ

今の自分は受け取る側としての立ち位置であることも

合わせて感じたことでした。

つまり、発する側 

伝える側としてのアクションと捉えれば

神事をクリエイトした方々は勇気ある初めの第一歩を進み出た

ということなのでしょう。

 

立ち位置、受け取り方、で 物事の見え方は瞬時に変わります。

 

「自分はどうしたいのか」

改めてこれを感じた昨日でした。

 

自分はどうありたいのか

 

問いかけ続けて帰ってきた答えは

 

「自由でありたい」

 

形やエゴにとらわれず

自由でありたい。

 

それは、まさに

ただ 単に

「じぶん」でありさえすればいいのだと

ただ 単に、息をしているだけでいいのだと。

 

今日はいよいよ エルサレムに向かいます。

 

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