タネノオト 〜ヒヒキ マノスヘシ

カタカムナ相似象 宇宙の理・イキルにただいま寄り添い中

歴史探索は、土地や人とつながる振動と共に、妄想イメージ力の強化に最適です。

f:id:neverland2001:20190903174333j:plain

 

こんにちは

ご訪問ありがとうございます。

 

蘇我入鹿神社

奈良へ走りました。

 

晴天。暑さ広がる猛暑の奈良でした。

(なかなか今年の夏は終わりませんね)

 

蘇我 入鹿(そが の いるか)は、飛鳥時代豪族蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。
青少年期は僧・に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。

 

蘇我氏天皇をないがしろにして、討たれた一族。

 

概ね歴史で習う場合、蘇我氏は悪者ですね。

 

でも 本当にそうだろうか は、中学生の頃からの私の疑問でした。

 

小山田古墳 2016年度(平成28年度)、第8次発掘調査。横穴式石室跡を検出、古墳と確定して遺跡名称を「小山田古墳」に変更(奈良県橿原考古学研究所

 

この遺跡が古墳だと認定されてからここは 日本書紀「今来(いまき)の双(ならび)の墓」の大陵だと言われています。

乙巳の変で殺された入鹿。

父である蝦夷は次の日に自害したと書紀には記載されています。

生前から作られていた陵である小山田古墳はこの時、大きく破壊されたのだと言われています。故に、この中には棺はなく、すぐそばにある双(ならび)の墓のもうひとつ、
小さな陵である菖蒲池古墳に2つの棺が納められることになったとか。

 

なんとなく病から蘇ったあと、我蘇る蘇我氏のことを感じたくなりました。

 

空は快晴。

飛鳥に到着して地図を見ていたら「入鹿神社」の文字が。

これはもう、行くしかありません。

 

f:id:neverland2001:20190903175856j:plain

 

飛鳥から橿原へ。
20分ばかりのドライブです。

 

本当にこんなところにあるのかというような奥まった場所にありました。

「入鹿神社」

 

御祭神は「蘇我入鹿素戔嗚尊

なんでこんなところにあるんだろうなぁと不思議に思えど聞けるような人は

その辺にいませんでした。

ただ、とても美しく開放感あふれる場所で、蓮のつぼみに出会いました。

 

f:id:neverland2001:20190903180125j:plain

 

f:id:neverland2001:20190903180222j:plain


 神社で涼んでいたおじさんが

「どこから来たん?なんでこんなレアな神社に来たん?」と逆にインタヴューされ

蘇我氏のことを少し話すると

「この辺一帯は蘇我氏の地盤やったとこやで。この辺は蘇我さん多いねん」と教えてくれました。その上で

「近くにな、天高市神社ってあるんやで」と。

 

高市というのは天武天皇の皇子で
こちらも私的には謎に包まれていていろんな意味で深い部分まで到達したい存在だったりするから、その後その神社も訪れてみました。

 

f:id:neverland2001:20190903180644j:plain

 

そうしたら、そこの若い宮司さんが、実は入鹿神社の宮司を兼任されているとかで

色々とお話をしてくれました。

 

「結果、日本の歴史は勝者のための歴史でしかなく…ゴホッゴホッ

 咳き込むってことは、これ以上話ししたらあかんのんかなぁ」

「エーーー」

 

中大兄皇子中臣鎌足が、天皇家に圧力をかけていた蘇我氏を滅ぼした事件の真実は

軍事力を支配していた蘇我氏を潰し、倭を手に入れたことをかっこよく物語にしたモノ。

その上、もしかしたら、中大兄皇子でさえも引っ張り出されている配役のひとりに過ぎず、本当の黒幕は別にいたりして。

 

蘇我入鹿という名前には、いくつかの議論がある。明治学院大学教授の武光誠は、当時の時代は精霊崇拝の思想に基づき、動物に因んだ名前を付けることが多かったという風潮から、蘇我入鹿も、海の神の力を借りる為に、イルカにあやかってこの名前を名乗ったという自説を表明している。しかしその一方で京都府立大学学長であった門脇禎二らは、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が彼の本当の名前を資料とともに消して、卑しい名前を勝手に名付けたという説を表明している。 

 

なんていうwikiの書き込みを見たりすると、

んーー 入鹿の本当の名前はなんだったんだろうか。なんてイメージが広がって

超たのしい。

 

歴史探索は、土地や人とつながる振動と共に、妄想イメージ力の強化に最適です。笑