遊牧民は本能的に柵を越えていく
こんにちは
ご訪問ありがとうございます。
セミが静かな声で鳴き始めました。
そろそろ梅雨明けです。
今朝の読書タイム。
古代の遊牧民の歴史を読んでいて面白い記述に出会いました。
「遊牧民は本能的に柵を越えていく」
広大な地域の多くの遊牧民族が組織され、たとえ言語は異なっても共通の文化に包括される。
言葉が違うのに、共通の文化などというのは矛盾に聞こえるかもしれない。
しかし、それは農耕民族的な偏見で、騎馬民族の文化には個々の言語をこえた、驚くような共通性と包容力、コスモポリタン性があった。
現代人は当然と思い込んでいるが、本来は架空のものでしかない国境などは、彼らにとってみれば、なんの拘束力もない。
古来、西アジアには
「農耕民は本能的に柵をめぐらし、遊牧民は本能的に柵を越えていく」という格言がある。
農耕民族は伝統的に閉鎖的な社会を形成して他民族を蛮視する傾向が強く、外国人の流入を許さない。その点、国境を知らない騎馬民族は、外国の文化や人材であっても、最大限に活用しようとする。
古代のユーラシア大陸の歴史は複雑で触れたくなかったのが本音。
その理由がまさにこれ。
確定しない感じが複雑怪奇にしていくから。
でも、わかり始めると、この騎馬民族たち、かなり親近感が湧いてきます。
面白いことにその習性は
「日の出を拝み、天神をまつり、狼を始祖とした」とのこと。
昨年カタカムナ学校で、毎回 神社の警蹕のような狼の遠吠えをしましたが
もしかしたら、匈奴の習性につながっているのか!!
日本の神社は匈奴につながっているのかもしれません。
農耕民は本能的に柵をめぐらし
遊牧民は本能的に柵を越えていく。
この象徴的な言葉に言い表されているのは
遊牧民の自由度。
土地に根ざすことなく、土地に支配されることなく
自由に闊歩する姿は強くてたくましい。
国境で決められた支配は後から作られていったものであって
古い時代にはなかったのですよね。
秋田も新潟も同じ日本。みたいな
チベットもロシアも同じ大陸。そんな感じの境目なのかもしれません。
古代を鑑みるとき、今の視点を捨てないと真実は見えてこないといつも思うのですが
さらに今の枠を吹き飛ばしたら深い事実に行き当たりそうです。
アロマやクリスタル、精神世界と言われるものと歴史の世界は全く異質かもしれないけどこんな風にして、見え方、見方を鍛えられているような気がしてます。
自由に、空をつないで、続く限りの大地をひたすら駆けていたイメージが
広がります。
遊牧民の自由度に憧れを抱きそうです。
遊ぶ牧歌的な民族。
いい響きです。
自由に柵を越えていきます。